日本の医療保険制度は、戦争で荒廃した本土に飲まず食わずして引き上げて来た人たちを如何に救済するか、ということから始まった。それが1961年の「国民皆保険制度」という形で、すべての国民の命と健康を守るようになった。 |
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公務員は共済保険、一般の労働者は健康保険、その他は国民健康保険という具合に、すべての国民が何らかの保険に入って、病気や怪我をした時にいつでもどこでも医療機関で診てもらえるようになった。
この制度を賄うお金は、公助=税金、共助=保険料、自助=自己負担というかたちで保障された。当初は、自助<共助<公助 と税金の投入が大きかったが、次第に逆転し始め、01年小泉政権になって以来、公助を少なく、自助を多くする政策がとられ、自己負担の割合が3割と、先進国で最も高くなった。
小泉政権は、自助を拡大しただけでなく、医療機関の収入の元となる診療報酬の総枠を大幅に圧縮し、しかも、医療機関とりわけ病院に市場原理を導入してきた。市場原理とは、頑張れば儲かりますよ、という商売の原理ですが、医療現場のそれは、これまで20日位かけて治していた病気の治療を10日で治せば、ご褒美=“報奨金”をあげるという形で医療機関にアメとムチの政治をしてきた。
20日を10日にするということは、医師や看護師など医療現場で働く人たちの労働密度が2倍になること。それでなくとも、経営が厳しくなっていた医療機関は、全国一斉に自分たちの病院の経営をよくするために頑張った。救急車で搬送された患者さんを多くみれば、報奨金を出すという仕組みができ、病院は、自家用車やタクシーでなく救急車で来てくれと患者に要請した。全国一斉に。患者は、救急車で行けば早く診てもらえると喜んだ。しかし、このようなことが短期間でなく、2年毎の診療報酬改定の度にこれでもかこれでもかと医療機関の尻をひっぱたかれると、医師や看護師はくたびれてしまった。
そのために勤務医がマイペースで仕事のできる開業の道を選んで病院を去り、看護師は転職した。この現象が全国に広がり、病院の閉鎖が相次いだ。これが医療崩壊。
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